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江田さんは別の例を引いた。田舎に行ったとき、道端で龍眼の実を売っていたので、試食してみた。どうせベトナムのことだ。粒が大きくて味のよいものを置いてあるのは、龍の上のほうだけにちがいない。そこで龍の脇から実を取って、皮をむき透明な果肉を舌に乗せると、思いがけず、ライチによく似た歯触りの甘酸っぱくてジューシーな味が口いっぱいに広がった。喜び勇んでひと籠買って帰り、家で食べてみたら、おいしい果実は籍の脇にあるものだけで、あとは売り物にならないような代物ばかり。ベトナム人物売りの策略は、騙されてなるものかという客の心理のさらに上をいっていたのである。
「こういう目にはさんざん遭いましたけど、不思議と日本に帰ろうとは思わなかったですね。仕事のほうも、いつか何とかなるだろうって。僕、わりと『ビジネス・ネタ』を考えるのが好きなんですよ、夢見るような感じで。ベトナムでの『需要と供給』を秤に掛けながら、ビジネス・ネタを考えるんですよ」
まず洗濯板の販売を考えた。ベトナムにはないものだから、たらいを前にしゃがんで手洗いをしているベトナムのおばちゃんたちに大ウケするにちがいない。これはいいぞと試しに洗濯板を、持って市場へ行くと、雑貨屋のおやじがつまらなそうな顔で頭上を指さした。そこには、ベトナムにはないと思っていた洗濯板が、ほこりをかぶったままぶらさがっていたそうである。
めげることなく、次にハエ取り紙の発売を思いついた。ベトナムにはハエが多い。今度こそ大ヒットまちがいなしと、ハエ取り紙を実地に使ってみた。
「ところが、天井からぶちさげてもハエが引っつかないんですよ。よぉく観察してみたら、暑いせいか、ベトナムのハエって地べたに近いところしか飛ばないんですよ」
その後も、旅行会社、モデル派遣業、アニメやドラマの吹き替えをする声優のプロダクション、とアイデアは次々に湧いてくるのだが、どれもこれも事業ライセンス取得の段階で引っ掛かってしまう。日本で貯めた200数十万円の貯金を食いつぶしていく日々が、一年余りも続いた。
不動産アドバイザーになったのも、江田さんの言う「需要と供給」を考え抜いた結果だった。ベトナムには推定で2000人の長期滞在の日本人がいるとみられるが、長らく住宅難に頭を痛めてきた。ベトナム流のせちがらい交渉術に不慣れな日本人は、相場の家賃より2〜3割も吹っ掛けてくる家主たちに手玉に取られていた。それを見るに見かねてという気持ちと、モットーの「需要と供給」の原理とが、江田さんの中でひとつになった。ちょうど日本人向けの担当者を求めていた不動産会社の意向とも合致して、江田さんは1996年から日本人の長期滞在者およびその予定者とベトナム人家主とのあいだに入る仲介の仕事を始めたのである。
「ホーチミン市内で不動産をお探しの方へ
当方、常時1000件以上の物件を御用意しておりますので、いつでもお気軽に御相談ください。
TUYENPHONG不動産 担当・江田要」
不動産物件の最新リストがびっしり印刷されたこんな広告が、いつしかサイゴンの日本人が集まる料理屋や喫茶店に貼りだされ、同じ文面のファックスが日系企業の事務所や日本商工会などにも舞い込むようになる。
ときは西暦20XX年―― ついに第三次世界大戦が勃発し、日本列島は第二次大戦時をはるかに凌ぐ戦火に覆われた。東京には猛烈な空爆が降り注がれ、大阪は史上初めて日本軍と外国の援軍が入り乱れる内戦の舞台となった。外国勢力からの武器や最新兵器を手に、日本人同士が血で血を洗う内戦は、断続的に30年間も続いた。実に800万人もの日本人が死に、十人にー人が身障者となり、1000万人もの日本人が何らかの精神障害に苦しめられることになった。戦争終結後、世界最貧国のひとつにまで転落した日本は、ようやく大胆な経済開放政策を打ち出したものの、戦争が残した傷痕はあまりにも深く、国家再建はいまだ軌道に乗らない。
たとえて言えば、これがベトナムの現在である。戦死者などの数は、ベトナムでの実数を日本の人口に比例させて計算したものだが、こんな大雑把な書き方ではかえって誤解を招くかもしれない。実際のベトナム史は、この何千倍、いや何万倍もずたずたに引き裂かれ、閉じられることのない傷口が夜ごとに疼く、そのような時間の堆積であったろう。長い戦争の前にも、フランスの過酷な植民地支配があり、日本軍の侵攻があり、南北分断があった。三十年に及んだ戦乱が収まり、悲願の国家統一を果たしたあとにも、隣国のカンボジアや中国との紛争が相次いだ。戦争で家族の誰かを亡くしていないべトナム人は、皆無と言ってよい。かろうじて生き延びた人々のあいだには、自分と家族以外には誰も(ときには家族ですらも)信じられない、骨がらみの人間不信が残った。
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