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軍服姿のせいでかえって貧相に見える家主が、ぼそっと言った。
「借金を早く返さないといけないので、前家賃をできるだけ早く入れてもらえませんか」
これにも多少、説明が要る。ベトナムは社会主義国なので、法律上、土地の私有は許されない。認められているのは土地の使用権とリース権、それに建物の所有権だけで、しかも銀行制度が未発達のため、土地を担保に銀行から借金をすることができない。そこでヤミ金融から調達することになるのだが、この利子が月一割もする。一年もしないうちに、借金は倍以上に膨らんでしまう。ヤミ金融には公安やチャイニーズ・マフィアも絡んでいるらしいのだが、ともあれ家主は1ドルでも多く前家賃を受け取り、それを借金の返済にあてたがる。
「ずばり、いくらくらい入れられますか、とりあえず手付金としてだけでも」
江田さんが打診すると、支店長は、
「いくらくらいなの?」
と訊き返す。江田さんの答えを聞くなり、
「3000(ドル)ねえ。いいですよ、それくらいなら」
請け負ったかと思うと、かたわらの経理担当の社員に、
「おい、3000だって。だいじょぶだよな?」
小声で尋ねている。その様子を見ていた江田さんが、
「じゃ、とりあえず1000(ドル)で家主に言ってみますから」
ベトナム流に大きく値切って、家主に持ちかけた。シンさんがベトナム語に翻訳する。さあ、これからが、サイゴンの市場でおなじみの売り手と貰い手の丁々発止の始まりと思いさや、ベトナム人の家主は浮かぬ顔で、
「家内に相談してみます」
ぽつりと答えるのみにとどまった。帰り際、この家主はシンさんに、
「ほかに部屋を探している人がいたら、ぜひ紹介してほしい」
と耳打ちしたそうである。もっと金払いのいい日本人を、ということなのだろう。
表通りに出ると、目の前に止まっているバイクの荷台に、奇妙なものがあった。金網を張った大きな籠がニ段重ねになっていて、下の籠には黄緑色の重たそうなヘビがー匹とぐろを巻き、上の籠には緑色の皮膚にオレンジの斑点のある大卜カゲが十匹余りも押し込められている。私はなんだかうれしくなって、これらの生き物が棲むベトナムの森の深さに思いを馳せていたら、江田さんがシンさんに、
「これ、食べるんですかぁ?」
いきなり即物的な質問をした。
「いえ、お酒に入れます」
シンさんの、これまた直截な答えに、支店長と社員たちは無言のまま籠の中のものをじっと見ている。
ベトナムにやって来るまで、江田さんには不動産の取引など全然経験がなかった。そもそも不動産屋になるために、ベトナムに来たわけではないのである。1993年4月の小旅行のあと、米軍基地での残務を整理して、翌94年の2月、本格的に仕事を始めるつもりでサイゴンに戻ってきた。
「いなかもんが東京に働きに行くみたいな感覚でした」
と、このあたりが旧世代の日本人とはまるで違っている。日本のー地方(山口県)からアジアのー都市(サイゴン)にやって来るのは、彼にとって”上京”とほとんど変わらぬ感覚なのである。「日本を捨てた」といった悲壮感は、微塵もない。
ベトナムで最初の日本人用レンタル・ビデオ店を開業するつもりだった。日本を出る前に、周防正行監督の『シコふんじゃった。』や藤田まこと主演の『必殺』シリーズなど200本ものビデオを、検閲を担当する国営の映像配給会社気付で送ってあった。ところが、その検閲で引っ掛かった。外国製ビデオの持ち込みは月に十本以内、検閲のためベトナム語に翻訳するのにー本あたり三週間はかかり、費用もー本につき百ドルは必要と通告されたのである。
翻訳料だけで当時のレートでも200万円以上、全部訳し終えるまでに十何年もかかってしまう(!)。国営映像配給会社にはもちろん、日本ベトナム文化交流協会にも掛け合ったけれど、どうにも埒が明かない。とうとう江田さんは自棄を起こした。
「ええい、そんなビデオ、ベトナムにくれてやるわい!」
あれは遠回しの賄賂の要求だったのだと、あとで気づいたときには、もう遅かった。
一方で、このビデオの持ち込み交渉中に、江田さんは繁華街に「キオスク」がニ店舗、売りに出されている話を聞きつける。日本の駅にあるようなキオスクではなく、サイゴンで新聞や飲み物を商う、日本的に言うなら「スタンド」である。日本円にして150万円でニ店舗を買い取り、まずここでかき氷やソフト・クリームを売ろう、ビデオの許可が下りたらそれを扱うのもいいなと夢をふくらませていたら、突如、冷水を浴びせかけられた。キオスク購入からわずか三ヵ月後に、その大通りからの「キオスク立ち退き命令」が出たのである。
江田さんは、地団太を踏んで悔しがった。そうか、そのことを知っていて、あのベトナム人は俺にキオスクを売りつけたのか…。
「ねっ、こすっからいでしょう。世界一こすっからい(笑)」
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