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日本の大手企業ですら、たとえば工業用の松ヤニを目当てに松林の近くに工場を建てたら、その直後に松林を保護する通達が出され、松ヤニの採取ができなくなってしまったという笑い話のような実話がある。ベトナム側の意向はどうあれ、はなから工場を騙し取るつもりだったのかと日本側が思ったとしても当然であろう。ベトナムの投資委員会が指定してきた合弁相手が、経済事件の犯人だったなどという信じがたい例も、私の知るかぎり2例あった。 「こっちにいる韓国人(進出企業の社員)がベトナム人(合弁相手や従業員)をぶん殴る事件が、よくベトナムの新聞に出るでしょう。まえは何やってんだかと思ってたけど、いまは韓国人の気持ち、よくわかるもん。もっとやれ、もっとやれと思いますよ」 ここまで言う日本人ビジネスマンもいるのである。
これでは外国投資は逃げていく。アジアの経済危機が現在のように深刻化する以前から、日本を含む外国からの投資総額は、大幅な落ち込みを見せていた。好況に沸くアメリカの企業ですら、自動車のクライスラーなど投資額ベスト・スリーの三社が、いずれも操業の中止や延期を決めている。
「外資が逃げていくことへの危機感は指導部にも多少はあると思うんだけど、指導者たちもその下の役人連中も、投資のときの賄賂でほくほくしている状態ですからねえ」 ベトナム在住歴の長い日本人経営者は苦笑して言ったが、こう付け加えるのも忘れなかった。 「賄賂の値段をつり上げたのは日本企業、とくに日本の商社なんですよ。商社で(贈賄を)やってないとこ、ないはずですよ。(ベトナム側の責任者)本人が受け取らないと、家族に賄賂攻勢をかけますからねえ。もともと汚れていた水を、もっと汚しているんです」
戯れ歌の文句で言えば「ぼうふらが人を刺すような蚊になるまでは、泥水飲み飲み浮き沈み」の悲哀を自ら招いているのである。かくして、ベトナムにいる日本人の間には、ベトナム・ブームが呆気なく過ぎ去ったあとの投げやりな気分と、それでも当面はここに張りつくしかないという、あきらめとも開き直りともつかぬ気配が混在しているかのように、私には見受けられた。
江田要さんは、ブームが加熱しかけていた93年4月に、初めてべトナムにやって来た。それまでは、生まれ故郷に近い山口県岩国市の米軍基地で働いていた。土地柄、基地従業員は国家公務員なみの好待遇を受け、基地がなくならないかぎり"親方星条旗"の身分でいられる。だが、冷戦体制の崩壊をきっかけに、岩国の米軍基地もやがてなくなるのではないかという不安が頭をもたげてきた。それなら、まだやり直しのきく年齢のうちに、何かに自分を賭けてみたいと思っていた矢先に、雑誌やテレビでベトナムの活況を知り、まず旅行がてら香港のあとベトナムにふらりと立ち寄ってみたのである。
区画整理の行き届いたサイゴンの中心街には、大通りに沿ってすらりと伸びた大樹の並木が続き、南国の青空にもう少しで手の届きそうなところに深い緑を重ねている。 「この街路樹が好きになったんですよ」 出会った日の翌日、相変わらずバイクを軽快に走らせながら、江田さんが懐かしげにつぶやいた。 「木陰に入ると涼しくてねえ。ここで夕焼けを見ながら涼んでいたら、僕の好きなボサノバがすごく似合いそうな街に思えたんですよ」 あのブラジルの、ちょっと物憂げな音楽が? 「ええ、あのけだるい感じのボサノバが、夕方のサイゴンにはぴったりだなって」 それで、ここに住んでみたい、と? 「いえ、働きたいと思ったんです。ここなら働けるなと思いました」 それから、「でもねえ」と私のほうを振り向きながら、 「最近はなんだかあわただしくて、夕焼けを見ながら風に吹かれているような時間は、なかなか持てなくなりましたけど」
むしろさばさばした口調で、そう言うのだった。 バイクは、ある日本の食品会社事務所の前で止まった。チャイムを押し、 「不動産のことでお電話をいただきました江田ですが」 ドアホン越しに話しかけると、おもむろにベトナム人のガードマンが扉を開けにくる。 「ちょっとバイクを見ててもらえますか」 と言い残して、江田さんは中に入っていったが、すぐに舌打ちをしながら戻ってきた。
「いま将棋やってるから待っててくれって。向こうが指定した時間通りに来て、これだもん」 ベトナムに限ったことではないが、日本企業の駐在員の中には、フリーランスで仕事をしている江田さんのような”定住型”の日本人を、露骨に鼻先であしらう人間がままいる。日本総領事館に電話をすると、決まって会社や部署の名前を尋ねてくるのも、在留邦人すべてを日本の企業社会の延長でしか見ていないからにちがいない。
「どうせ日本で食えなくなって来たんだろうとでも思っているんじゃないですか」 と、江田さんはべつだん気に掛けるふうでもないが、同じフリーランスの私はなんだか無性に腹が立つ。
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